死海の北西、ヨルダン川西岸地区にある遺跡ヒルベト・クムランの周辺において、新たな死海文書が発見された。
12番目の洞窟となり、60年ぶりの発見である。
死海文書(しかいもんじょ)は、遺跡ヒルベト・クムランにある11の洞窟で発見されていた。
最初に発見されたのは、1947年である。
羊飼いが偶然、洞窟の中にあった壺から発見したと言われている。
目次
1.死海文書とは
死海文書とは、死海の北西、ヨルダン川西岸地区にある遺跡ヒルベト・クムランおよびその周辺で発見された写本のことである。
主にユダヤ教の聖書正典(旧約聖書)(※)に関連する文書である。
20世紀における考古学最大の発見と言われている。
※聖書は旧約聖書と新約聖書からなり、旧約聖書はユダヤ教の聖典の一部を取り込んだものである。キリストが登場するのは、新約聖書の部分である。
写本が作られたのは、西暦1世紀頃と言われている。
死海文書が発見れるまで,最も古い写本は西暦9世紀から10世紀頃のものだった。
西暦1世紀頃は、キリスト誕生から間もない頃である。
なお、死海文書の一部は初期のキリスト教徒によるものではないかという説もあるが確かではない。
第一洞窟から見つかったイザヤ書の第二の写本 ウキペディアより
遺跡ヒルベト・クムランの場所の地図
2.死海文書の内容
死海文書は、大きく分けて3つに分類される。
①ユダヤ教の聖書正典(旧約聖書)【全体の4割】
②旧約聖書外典、偽典【全体の3割】
③宗団文書【全体の3割】
驚くことに西暦9世紀から10世紀頃に書かれた写本と、死海文書で発見された写本の記載内容は、ほとんど一致している。
つまり、800~900年の間、そのまま写本され続けたということだ。
3.誰が書いたのか
死海文書は誰が書いたかであるが諸説ある。
広く支持されているのは、クムラン教団の人々が書いたという説である。
クムラン教団は、紀元前2世紀から西暦68年頃までクムランの洞穴に住み、修道的な生活を送っていたらしい。
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4.なぜ洞窟にあったのか?
西暦66年から73年において、ローマ帝国とローマのユダヤ属州に住むユダヤ人との間で戦争があった。
ユダヤ戦争は呼ばれる。
そのユダヤ戦争の戦火の被害を避けるためにクムラン周辺の洞窟に隠されたとされている。
5.Googleによる死海文書のデジタル化
エルサレムのイスラエル博物館と Googleが死海文書デジタル化というプロジェクトを遂行中である。
最古の聖書写本の一部をオンラインで公開しているとのこと。
6.死海文書に関する都市伝説?
死海文書に関するいくつかの都市伝説を紹介する。
5.1.世界の秘宝のありかを示している
第3洞窟から「銅の巻物」と呼ばれる文書が見つかっている。
文字を刻んだ薄い銅版を巻物のように丸めた状態で見つかった。
世界の財宝の隠し場所が記されていると話題となった。
しかし、巻物に記された財宝はまだ見つかっていない。
5.2.イスラエルの予言
現代の未来も予言しているというものである。
死海文書のダニエル書には「エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が70年である」と書かれているが、このエルサレムとは、現代のイスラエルを指しているというものだ。
イスラエル建国されてからの70年間のことを予言しているらしい。
5.3.核・戦・争の予言
ダニエル書に以下の記載がある。
「亡びの矢は一斉に放たれて、あやまたず命中する。それはきらめく炎とともに襲いかかり、そこで水を飲む者らは、みな消え失せる」(「感謝の詩篇」3章27・30節)
これは核・戦・争を予言しているらしい。
5.4.二人のメシアの予言
核・戦・争のとき二人のメシアが表れるというものである。
アロンのメシアとイスラエルのメシアである。
アロンとは預言者モーセの兄である。
きりがないのでこの辺にしておくが、ノストラダムスの予言の1999年を通り過ぎてしまったため、新たな予言を探しているのであろう。
もう予言ブームはこないと思うが・・・